仏教Q&A《霊・迷信・俗信編》
仏教Q&A
①霊・迷信・俗信 編
Q 悪霊はあるのか?
A 私たちの生命は永遠であり、生といい死といっても、それは同じ宇宙法界の生命体の中にあって、一個の生命体として生ずる時と、死して法界に冥伏するときの違いがあるにすぎません。
しかし、死後の生命の状態が、ときには生きている人に感応することもあり、また故人の受けた十界の業果が遺族などになんらかの影響を及ぼすこともありますが、それはあくまでも因果応報によるもので、たたりや呪いとはまったく違うものです。
しかし、死後の生命の状態が、ときには生きている人に感応することもあり、また故人の受けた十界の業果が遺族などになんらかの影響を及ぼすこともありますが、それはあくまでも因果応報によるもので、たたりや呪いとはまったく違うものです。
Q 超能力を信ずることは宗教?
A 一般的に超能力とは、普通の人間の五官ではなしえない力を指していいますが、本来十界の生命を備えている人間が、周囲の縁や修練によって、特別な能力を持ったとしても少しも不思議ではありません。
仏教では、これら超能力のことを「神通力」あるいは単に「通力」と呼び、これを五通と六通に分けて説明しています。
五通とは、1自在に移動できる力。2透視する力。3普通の人の聞こえない音を聞く力。4他人の考えを知る力。5自他の過去世の相を知る力をいい、六通とはこれに煩悩を取り去る力を加えたものを指します。
日蓮大聖人は、
「利根と通力とにはよるべからず。」(唱法華題目抄)
と仰せになっています。利根とは見えないものを見、聞こえない音を聞きとるなどの能力を持つ人をいいます。日蓮大聖人は利根や通力には人間の生命を浄化する力はまったくなく、かえって正しい仏法を見失わせ、成仏への障害となるために、これらに頼ることを厳しく禁じられているのです。
なぜならば、『法華経』には、「如来秘密神通之力」(寿量品第十六)と説かれております。この神通力とは、悪業が深く重い人でも必ず成仏せしめるという、仏のみが持つところの究極の功徳力をいいます。
仏教では、これら超能力のことを「神通力」あるいは単に「通力」と呼び、これを五通と六通に分けて説明しています。
五通とは、1自在に移動できる力。2透視する力。3普通の人の聞こえない音を聞く力。4他人の考えを知る力。5自他の過去世の相を知る力をいい、六通とはこれに煩悩を取り去る力を加えたものを指します。
日蓮大聖人は、
「利根と通力とにはよるべからず。」(唱法華題目抄)
と仰せになっています。利根とは見えないものを見、聞こえない音を聞きとるなどの能力を持つ人をいいます。日蓮大聖人は利根や通力には人間の生命を浄化する力はまったくなく、かえって正しい仏法を見失わせ、成仏への障害となるために、これらに頼ることを厳しく禁じられているのです。
なぜならば、『法華経』には、「如来秘密神通之力」(寿量品第十六)と説かれております。この神通力とは、悪業が深く重い人でも必ず成仏せしめるという、仏のみが持つところの究極の功徳力をいいます。
Q 占いなどはどう考えるべきか
A 私たち人間の生命は、色心不二といって肉体と精神が一体のものですから、心に大きな悩みや心配ごとがあれば、具体的に色法として相にあらわれます。また内蔵などに疾患があればもちろんその特徴が出てきますし、本人の生活信条や性格なども、長い間には姿、形にあらわれてくるものです。
したがって、表面の人相や手相からその人の性格や健康状態、過去のことや将来の予想もある程度できるかもしれません。
日蓮大聖人は、
「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」(開目抄)
と記されているように、現在はまさしく過去の結果であり、未来は現在の果報が現れるのです。
したがって、自分の未来を占い師などに問い尋ねて一喜一憂するよりも、現在の自分が将来の幸福のために正しい因行を積んでいるかどうかを考えることがもっとも大切なのです。
したがって、表面の人相や手相からその人の性格や健康状態、過去のことや将来の予想もある程度できるかもしれません。
日蓮大聖人は、
「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」(開目抄)
と記されているように、現在はまさしく過去の結果であり、未来は現在の果報が現れるのです。
したがって、自分の未来を占い師などに問い尋ねて一喜一憂するよりも、現在の自分が将来の幸福のために正しい因行を積んでいるかどうかを考えることがもっとも大切なのです。
Q 守護霊や守護神はいるのか
A 守護霊をないがしろにしたり感謝を怠ったり、また先祖の浄霊をしないから、我が身や家庭に災いが起こるのと考える人もいます。私たちには過去世のことや未来の出来事、また死後の世界を見ることができませんし、実体験を通して明らかにすることもできません。ついそうした霊能者の言葉にまどわされてしまう人が多いのです。
しかし、守護霊や先祖の霊が私たちを守ってくださるでしょうか。日蓮大聖人の教えは、久遠元初(遠い過去)以来、末法万年の遠き未来に及ぶ三世の一切を了達された本仏の教えであり、一閻浮提第一の智者の指南なのです。
その大聖人の教えによりますと、三世十方のありとあらゆる仏、一切の諸天善神はすべて久遠元初の本仏の垂迹であり、従者であるといわれています。それゆえに、諸天善神は妙法蓮華経の正法を守り、法華経の行者を守護し、正法に帰依する人々の身の上や生活の上に、社会や国土の上に、正法興隆のために、善神としての働きを垂れるのです。
法華経には、
「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護せん」(安楽行品第十四)
と説かれています。
私たちはなによりも妙法蓮華経の本門の本尊を信じ、題目を唱え行ずることによって、一切の諸天善神の守護の力をうることができるのです。
しかし、守護霊や先祖の霊が私たちを守ってくださるでしょうか。日蓮大聖人の教えは、久遠元初(遠い過去)以来、末法万年の遠き未来に及ぶ三世の一切を了達された本仏の教えであり、一閻浮提第一の智者の指南なのです。
その大聖人の教えによりますと、三世十方のありとあらゆる仏、一切の諸天善神はすべて久遠元初の本仏の垂迹であり、従者であるといわれています。それゆえに、諸天善神は妙法蓮華経の正法を守り、法華経の行者を守護し、正法に帰依する人々の身の上や生活の上に、社会や国土の上に、正法興隆のために、善神としての働きを垂れるのです。
法華経には、
「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護せん」(安楽行品第十四)
と説かれています。
私たちはなによりも妙法蓮華経の本門の本尊を信じ、題目を唱え行ずることによって、一切の諸天善神の守護の力をうることができるのです。
Q 水子のたたりはあるのか?
A 最近、水子のたたりの例をあげ、いたずらに恐怖心をあっおっているのをみかけます。
仏教では人間の生命が体内で生育する次第を五位に分けて説いています。
1カララン位(和合と訳され父母が初めて和合する位)
2アブドン位(皰と訳され、二七日を経て瘡疱の形となる位)
3ヘイシ位(血肉と訳され、三七日を経て血肉を形成する位)
4ケンナラ位(堅肉と訳され、四七日になり肉のかたまる位)
5バラシャキャ位(形位と訳され、五七日を経て六根が備わる位)
そして出生を待つと説かれています。
この説は受胎後、胎児が直ちに生命体として生育を始めることを明かしており、現代医学と近似しているものといえましょう。まさしく胎児は人格とまではいえないまでも、生命ある“ひと”として生きているのです。
そして、十界互具・一念三千の仏法の生命観より見れば、たとえ小さな胎児の生命にも必ず仏性を具し、あらゆる可能性を秘めているのです。ですから「水子のたたり」があるかといえば、そのようなものはありませんが、堕胎という生命軽視の行為はなんらかの罪障を作ることになるでしょう。
そのために大事なことは、何よりも正しい仏法を基調とした生命観の確立と、道徳心の向上をはかるといことであり、もし不幸にして水子があった場合は、正しい因果律をふまえた真実の仏法による追善供養と、本人自身の罪障消滅の祈念こそがもっとも肝要なことといえましょう。
仏教では人間の生命が体内で生育する次第を五位に分けて説いています。
1カララン位(和合と訳され父母が初めて和合する位)
2アブドン位(皰と訳され、二七日を経て瘡疱の形となる位)
3ヘイシ位(血肉と訳され、三七日を経て血肉を形成する位)
4ケンナラ位(堅肉と訳され、四七日になり肉のかたまる位)
5バラシャキャ位(形位と訳され、五七日を経て六根が備わる位)
そして出生を待つと説かれています。
この説は受胎後、胎児が直ちに生命体として生育を始めることを明かしており、現代医学と近似しているものといえましょう。まさしく胎児は人格とまではいえないまでも、生命ある“ひと”として生きているのです。
そして、十界互具・一念三千の仏法の生命観より見れば、たとえ小さな胎児の生命にも必ず仏性を具し、あらゆる可能性を秘めているのです。ですから「水子のたたり」があるかといえば、そのようなものはありませんが、堕胎という生命軽視の行為はなんらかの罪障を作ることになるでしょう。
そのために大事なことは、何よりも正しい仏法を基調とした生命観の確立と、道徳心の向上をはかるといことであり、もし不幸にして水子があった場合は、正しい因果律をふまえた真実の仏法による追善供養と、本人自身の罪障消滅の祈念こそがもっとも肝要なことといえましょう。
Q 厄年はあるのか、厄を防ぐには?
A 世間では、よく四十二歳の厄年だ、三十三歳の大厄だといって心配している人が大ぜいいます。
しかし、日蓮大聖人は、
「三十三のやくは転じて三十三のさいはひとならせ給ふべし。七難即滅七福即生とは是なり。年はわかうなり、福はかさなり候ベし」(四条金吾殿女房御返事)
と妙法の信徒にとって、厄はけっして恐ろしいものではなく、むしろその時こそ若さを増し、はつらつとして福徳を積むことができるのだということを教えています。
「厄の年災難を払はん秘法には法華経には過ぎず。たのもしきかな、たのもしきかな」(太田左衛門尉御返事)
との教えどおり、私たちはこの厄年の節目の時こそ、邪心・邪説に惑わされることなく、正しい御本尊のもとに七難即滅・七福即生の、より輝かしい人生を切り開いていくことが必要なのです。
しかし、日蓮大聖人は、
「三十三のやくは転じて三十三のさいはひとならせ給ふべし。七難即滅七福即生とは是なり。年はわかうなり、福はかさなり候ベし」(四条金吾殿女房御返事)
と妙法の信徒にとって、厄はけっして恐ろしいものではなく、むしろその時こそ若さを増し、はつらつとして福徳を積むことができるのだということを教えています。
「厄の年災難を払はん秘法には法華経には過ぎず。たのもしきかな、たのもしきかな」(太田左衛門尉御返事)
との教えどおり、私たちはこの厄年の節目の時こそ、邪心・邪説に惑わされることなく、正しい御本尊のもとに七難即滅・七福即生の、より輝かしい人生を切り開いていくことが必要なのです。
Q 生き仏・生き神って?
A 数多くの新興宗教や群小教団の中には、“生き神さま”と称される教祖がいるようです。では、このような生き神、生き仏と称する人は信用できるものなのでしょうか。
これについて二つの点から考える必要があると思います。その第一は、むかし釈尊が出現される以前には、九十五派のバラモンがあり、その中に生き神と同じような教祖も多くおりました。これに対して釈尊は、すべての世界は因果の原理によって構成されており、因果を無視したり、因果を説かない教えは真実のものではない、しりぞけられました。
日蓮大聖人も、
「実に因果を弁へざる事嬰児のごとし」(開目抄)
と仰せられております。
生き仏や生き神と称する人は、いったいかなる因行を修行して神や仏になったのでしょうか。もしある日突然、神がかりとなったとしても、因行が説明できない神や仏ならば信ずべきものではないのです。
第二の点は、生き仏や生き神といわれるものが、はたして真理に体達した聖人や、経典によって予証されているかどうかということです。御本仏日蓮大聖人は、末法の法華経の行者として現実の五濁の世に出現されて、法華経に説かれた予証を体現されたのです。
経文に予証されていない生き仏や生き神といわれるものは、しょせん信用するにたりないものであり、少しばかり人間ばなれをした能力があったとしても、衆生を根本から救うべき正法の導師などではないのです。
これについて二つの点から考える必要があると思います。その第一は、むかし釈尊が出現される以前には、九十五派のバラモンがあり、その中に生き神と同じような教祖も多くおりました。これに対して釈尊は、すべての世界は因果の原理によって構成されており、因果を無視したり、因果を説かない教えは真実のものではない、しりぞけられました。
日蓮大聖人も、
「実に因果を弁へざる事嬰児のごとし」(開目抄)
と仰せられております。
生き仏や生き神と称する人は、いったいかなる因行を修行して神や仏になったのでしょうか。もしある日突然、神がかりとなったとしても、因行が説明できない神や仏ならば信ずべきものではないのです。
第二の点は、生き仏や生き神といわれるものが、はたして真理に体達した聖人や、経典によって予証されているかどうかということです。御本仏日蓮大聖人は、末法の法華経の行者として現実の五濁の世に出現されて、法華経に説かれた予証を体現されたのです。
経文に予証されていない生き仏や生き神といわれるものは、しょせん信用するにたりないものであり、少しばかり人間ばなれをした能力があったとしても、衆生を根本から救うべき正法の導師などではないのです。
Q 狐つきなどの憑き物って?
A 仏法ではあらゆる生命の本質を十界論でとらえていますが、狐や蛇などのつきものは、まさに人間の生命の上にあらわれた畜生界の姿にほかなりません。
十界とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏の十種の生命の働きをいい、それらはすべて私たちの生命の奥底に冥伏しており、日常のさまざまな縁にふれてあらわれてくるものなのです。
ですから、狐つきなどもその人の心身にそなわっている十界中の畜生界の働きが邪な信仰などに誘発されて現われてきたものといえます。つまり信仰の対象とした狐や犬などの畜生界の生命と、私たちの生命に備わっている畜生界が呼応して、いわゆる感応道交してあらわれた姿がつきものなのです。
すなわち正しい仏の教えに従って正しい信仰をつらぬけば、仏界と衆生の十界が感応道交し、しかも衆生の仏性が開発されて、成仏への道が開けますが、狐などの畜類を信仰するならば、その人の心や行動や果報が狐などの畜生界の姿となって現れてくるのです。
したがって狐つきなどで悩んでいる人は、正しい御本尊を信じて唱題し、自らも畜生界などに紛動されない強い意志を持つことが大切なのです。
十界とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏の十種の生命の働きをいい、それらはすべて私たちの生命の奥底に冥伏しており、日常のさまざまな縁にふれてあらわれてくるものなのです。
ですから、狐つきなどもその人の心身にそなわっている十界中の畜生界の働きが邪な信仰などに誘発されて現われてきたものといえます。つまり信仰の対象とした狐や犬などの畜生界の生命と、私たちの生命に備わっている畜生界が呼応して、いわゆる感応道交してあらわれた姿がつきものなのです。
すなわち正しい仏の教えに従って正しい信仰をつらぬけば、仏界と衆生の十界が感応道交し、しかも衆生の仏性が開発されて、成仏への道が開けますが、狐などの畜類を信仰するならば、その人の心や行動や果報が狐などの畜生界の姿となって現れてくるのです。
したがって狐つきなどで悩んでいる人は、正しい御本尊を信じて唱題し、自らも畜生界などに紛動されない強い意志を持つことが大切なのです。