仏教Q&A《正しい信仰編》
仏教Q&A
Q 神仏を礼拝してれば何でもよい?
A 宗教に限らず、人間にとって敬い、信ずるということは大切なことです。日常生活においても信頼する心がなかったならば、食事もできませんし、乗り物はおろか、道を歩くことも、家に住むことさえできないでしょう。
では反対になんでも無節操に信ずればよいかというと、それもいけません。道に迷ったときは道をよく知っている人に尋ねれば、間違いなく目的地に着くことができます。私たちは目的地に正しく導いてくれるものを信用したときには、初期の目的が達成されるわけですし、反対にいつわりのものや目的と違ったものを信じたときには、思い通りにならず、不満や不幸を感ずるのです。
信仰における礼拝は、その対象たる本尊に衆生の生命が強く感化されるのであり、人間の生命と生活の全体に、これほど強烈に働きかけ、影響を与えるものはないのです。ですからいかに信ずることが尊いといっても、人間に悪影響を与える低劣な本尊や、誤った宗教を信ずるならば、その本尊や教えに感応して、次第にその人は濁った生命となり、不幸な人生を歩むことになるわけです。
理論的にも正しく、経典によってその正しさが証明され、現実に人々を幸福に導く本尊と真実の教えを説き明かす宗教に帰依すべきでありましょう。
では反対になんでも無節操に信ずればよいかというと、それもいけません。道に迷ったときは道をよく知っている人に尋ねれば、間違いなく目的地に着くことができます。私たちは目的地に正しく導いてくれるものを信用したときには、初期の目的が達成されるわけですし、反対にいつわりのものや目的と違ったものを信じたときには、思い通りにならず、不満や不幸を感ずるのです。
信仰における礼拝は、その対象たる本尊に衆生の生命が強く感化されるのであり、人間の生命と生活の全体に、これほど強烈に働きかけ、影響を与えるものはないのです。ですからいかに信ずることが尊いといっても、人間に悪影響を与える低劣な本尊や、誤った宗教を信ずるならば、その本尊や教えに感応して、次第にその人は濁った生命となり、不幸な人生を歩むことになるわけです。
理論的にも正しく、経典によってその正しさが証明され、現実に人々を幸福に導く本尊と真実の教えを説き明かす宗教に帰依すべきでありましょう。
Q よい教えはどんな宗教にもある?
A 1教義の善し悪しとは何によって決められるか。
2宗教とは観念的な理論のみではなく、実践がともなうものである。と二点から考えてみます。
まず第一の教義の善し悪しですが、もし一般的な道徳や常識という見地に立てば、人殺しや盗みを奨励する宗教でないかぎり、よい教えを説いているようにみえます。
しかし、宗教は個人の身体と精神を含む全人格が帰命し、よりどころとするものですから、高い教えと低い教え、部分的な教えと大局的な教えの相違は、信ずる人間性に対して敏感に影響します。したがってひとりの人間をより根本から蘇生させ本源的に救済するためには低級で部分的なものではなく、高度で大局的な教えに帰依しなければなりません。
日蓮大聖人は、
「所詮成仏の大綱を法華に之を説き、其の余の網目は衆典に明かす。法華の為の網目なるが故に」(観心本尊得意抄)
と仰せられ、法華経という大綱があって、初めて法華経以前に説かれた諸々の教えが生かされると説いています。
仏教以外のキリスト教やマホメット教、儒教、神道、なども一見すると人倫の道が説かれており道徳的にはよい教えのようですが、人間の三世にわたる生命論や、人間が具有する十界三千の実相が説かれていませんし、これらを仏教とりわけ法華経と比べるとまったく低級な宗教であることがわかります。また、
「無量義とは一法より生ず」(無量義経・開結八四)
ともいわれますように、唯一無二の大綱たる一法を信受するとき、種々の経々に説かれている功徳利益のすべてがはじめて生きてくるのです。
この一法こそ仏法の上からいうところの真実の一法であり、もっとも正しい教えなのです。
第二に宗教には必ず実践がともないますから、理論的にはいかに立派な教えであっても、それが現実に生かされないものであれば、何の役にも立ちません。
その理論的教義を現実に証明し民衆を救済する教主が出現するかしないかは、その宗教が真実か空想かという違いでもあります。教主がみずから出現し、正法正義を説いてそれを実践し証明したとき、はじめてその宗教は信憑性のある宗教といえるのです。
2宗教とは観念的な理論のみではなく、実践がともなうものである。と二点から考えてみます。
まず第一の教義の善し悪しですが、もし一般的な道徳や常識という見地に立てば、人殺しや盗みを奨励する宗教でないかぎり、よい教えを説いているようにみえます。
しかし、宗教は個人の身体と精神を含む全人格が帰命し、よりどころとするものですから、高い教えと低い教え、部分的な教えと大局的な教えの相違は、信ずる人間性に対して敏感に影響します。したがってひとりの人間をより根本から蘇生させ本源的に救済するためには低級で部分的なものではなく、高度で大局的な教えに帰依しなければなりません。
日蓮大聖人は、
「所詮成仏の大綱を法華に之を説き、其の余の網目は衆典に明かす。法華の為の網目なるが故に」(観心本尊得意抄)
と仰せられ、法華経という大綱があって、初めて法華経以前に説かれた諸々の教えが生かされると説いています。
仏教以外のキリスト教やマホメット教、儒教、神道、なども一見すると人倫の道が説かれており道徳的にはよい教えのようですが、人間の三世にわたる生命論や、人間が具有する十界三千の実相が説かれていませんし、これらを仏教とりわけ法華経と比べるとまったく低級な宗教であることがわかります。また、
「無量義とは一法より生ず」(無量義経・開結八四)
ともいわれますように、唯一無二の大綱たる一法を信受するとき、種々の経々に説かれている功徳利益のすべてがはじめて生きてくるのです。
この一法こそ仏法の上からいうところの真実の一法であり、もっとも正しい教えなのです。
第二に宗教には必ず実践がともないますから、理論的にはいかに立派な教えであっても、それが現実に生かされないものであれば、何の役にも立ちません。
その理論的教義を現実に証明し民衆を救済する教主が出現するかしないかは、その宗教が真実か空想かという違いでもあります。教主がみずから出現し、正法正義を説いてそれを実践し証明したとき、はじめてその宗教は信憑性のある宗教といえるのです。
Q どんな宗教にも利益がある?
A すべての宗教かどうかはわかりませんが、低級宗教や教義もないような宗教、あるいは宗教ともいえない精神統一などにも一分の利益というべき結果が見られる場合があります。人によってはこの一分の結果や樣相が御利益のように感じられるのでしょう。しかし、人間の生命は一念三千といって三千種類の生命状態が可能性として潜在しており、それが縁にふれてさまざまな作用をするわけですから、周囲の状態(縁)を変えることによって今までとは違った心境や状態になることもありうるのです。生活と仕事に追われていた人が、心を鎮めて何かを拝み祈ることによって、今までとは違った心境になるでしょうし、時には精神の変化が肉体に影響して病気が好転することも不思議なことではありません。
また、祈祷師や占い師などのように利根や通力という一種の超能力をもって、他人の願いごとを祈ったり、将来を占い、それが時にはかなったり当たったりすることもあるでしょう。これなども人間生命の潜在的可能性の一分が現れたものであり、あっても不思議ではありません。
しかし日蓮大聖人は、
「利根と通力とにはよるべからず。」(唱法華題目抄・新編二三三)
と説かれ、人間の真の幸福は仏の境界に至ることであり、このような超能力によってはいけないと戒めています。
ともあれ、宗教の高低・正邪をとわず、いずれの宗教にも一部分の利益ともいうべきものがあるかも知れませんが、私たちの真実の幸福は一時的な神だのみや、目先の急場しのぎによって得られるものではなく、宇宙法界を悟った仏の教えにしたがい、正しい本尊を信仰することによって得られるものなのです。すなわち本仏の慈悲によって仏天の加護を受け、正しい信心と修行によって人間としての福徳を備え、清浄にして自在な仏の境界を現実生活の中で生かしていくことが仏教の目的であり、真実の大利益なのです。
一時的、表面的な結果のみにとらわれることなく、正しい教理と経文、そして現実の証拠がそなわっている正しい宗教によって、正しい人生を歩むことこそ人間としてもっとも大切なことなのです。
また、祈祷師や占い師などのように利根や通力という一種の超能力をもって、他人の願いごとを祈ったり、将来を占い、それが時にはかなったり当たったりすることもあるでしょう。これなども人間生命の潜在的可能性の一分が現れたものであり、あっても不思議ではありません。
しかし日蓮大聖人は、
「利根と通力とにはよるべからず。」(唱法華題目抄・新編二三三)
と説かれ、人間の真の幸福は仏の境界に至ることであり、このような超能力によってはいけないと戒めています。
ともあれ、宗教の高低・正邪をとわず、いずれの宗教にも一部分の利益ともいうべきものがあるかも知れませんが、私たちの真実の幸福は一時的な神だのみや、目先の急場しのぎによって得られるものではなく、宇宙法界を悟った仏の教えにしたがい、正しい本尊を信仰することによって得られるものなのです。すなわち本仏の慈悲によって仏天の加護を受け、正しい信心と修行によって人間としての福徳を備え、清浄にして自在な仏の境界を現実生活の中で生かしていくことが仏教の目的であり、真実の大利益なのです。
一時的、表面的な結果のみにとらわれることなく、正しい教理と経文、そして現実の証拠がそなわっている正しい宗教によって、正しい人生を歩むことこそ人間としてもっとも大切なことなのです。
Q 全て釈尊の教えなので同じ?
A 今から三千年前にインド北部のカピラ城の王子として誕生した釈尊は、十九歳のとき修行者となり、三十歳の時にガヤ城の近くで悟りを開きました。その後八十歳で入滅するまで五十年の間、人々に悟りの法を教えるためにさまざまな教えを説きました。
中国の天台大師は、釈尊の五十年間の説法を深く検討して、その内容から説法の時期を五つに区分しました。これが「五時」といわれるものです。また「八教」という区分けもしていますが、ここでは「五時」によって説明しましょう。
第一は華厳時といって、釈尊は開悟の後、直ちに二十一日間にわたって哲学的な十玄六相などの教理を説きましたが、聴衆はまったく理解できませんでした。
第二は阿含時といって戒律を中心とした教えを十二年間説きました。これは三蔵教あるいは小乗教といわれ、仏教の中でもっとも低い教義です。
第三は方等時といって幅広い内容の教えを十六年間説きました。これは弾訶といって小乗教に執着する人を叱責し、大乗教すなわち自分のみでなく他人をも内面から救う教えに帰入させるものです。
第四は般若時といって十四年間、空すなわちこの世のものは何ひとつとして定まった実体などなく、執着すべきものはないという教えを説きました。この般若と第一華厳・第三方等は大乗教ですが、いまだ釈尊が久遠の仏であることを明かさず、人生の目的は三乗(声聞・縁覚・菩薩)にあるとして、真実を示さない仮の教えでした。
釈尊は第五時の法華経を説法するために、まず無量義経を説きましたがその中で、
“仏の眼をもって衆生の根性を見るに、人々は種々様々の心根だったので、まずそれを調えるために種々の方便の力を用いたり、仮りの法を説いたのである。”と説明し、
「四十余年には未だ真実を顕わさず」(無量義経・開結八八)
と説いています。そして法華経八年間の説法で、はじめて真実の教えとして、いかなる人もその身のままで仏の境界に至る一仏乗の法を説きあらわしたのです。
現在、東大寺を本山とする華厳宗は第一華厳時の教義を所依とし、タイやビルマなどに残っている戒律仏教や、律宗などは第二阿含時の経典を教義としています。また浄土宗、禅宗、真言宗、法相宗などは第三方等時の経典からそれぞれ宗義を立てており、天台宗や日蓮宗各派のように法華経を依経としていても法華経の迹門の観念的教理を中心としているなど、いずれの宗派も、末法現時に適した究極の教えである法華経本門の法を依教としていません。
法華経本門の教えとは、釈尊が久遠の昔に成仏するために修行した根本の原因となる一法であり、それは日蓮大聖人が唱えあらわされた南無妙法蓮華経に尽きるのです。
このように同じ仏教といっても、教義の内容や目的、そして修行もまったく違うのですから仏の本意に基づく真実の教えに帰依しなくてはなりません。
中国の天台大師は、釈尊の五十年間の説法を深く検討して、その内容から説法の時期を五つに区分しました。これが「五時」といわれるものです。また「八教」という区分けもしていますが、ここでは「五時」によって説明しましょう。
第一は華厳時といって、釈尊は開悟の後、直ちに二十一日間にわたって哲学的な十玄六相などの教理を説きましたが、聴衆はまったく理解できませんでした。
第二は阿含時といって戒律を中心とした教えを十二年間説きました。これは三蔵教あるいは小乗教といわれ、仏教の中でもっとも低い教義です。
第三は方等時といって幅広い内容の教えを十六年間説きました。これは弾訶といって小乗教に執着する人を叱責し、大乗教すなわち自分のみでなく他人をも内面から救う教えに帰入させるものです。
第四は般若時といって十四年間、空すなわちこの世のものは何ひとつとして定まった実体などなく、執着すべきものはないという教えを説きました。この般若と第一華厳・第三方等は大乗教ですが、いまだ釈尊が久遠の仏であることを明かさず、人生の目的は三乗(声聞・縁覚・菩薩)にあるとして、真実を示さない仮の教えでした。
釈尊は第五時の法華経を説法するために、まず無量義経を説きましたがその中で、
“仏の眼をもって衆生の根性を見るに、人々は種々様々の心根だったので、まずそれを調えるために種々の方便の力を用いたり、仮りの法を説いたのである。”と説明し、
「四十余年には未だ真実を顕わさず」(無量義経・開結八八)
と説いています。そして法華経八年間の説法で、はじめて真実の教えとして、いかなる人もその身のままで仏の境界に至る一仏乗の法を説きあらわしたのです。
現在、東大寺を本山とする華厳宗は第一華厳時の教義を所依とし、タイやビルマなどに残っている戒律仏教や、律宗などは第二阿含時の経典を教義としています。また浄土宗、禅宗、真言宗、法相宗などは第三方等時の経典からそれぞれ宗義を立てており、天台宗や日蓮宗各派のように法華経を依経としていても法華経の迹門の観念的教理を中心としているなど、いずれの宗派も、末法現時に適した究極の教えである法華経本門の法を依教としていません。
法華経本門の教えとは、釈尊が久遠の昔に成仏するために修行した根本の原因となる一法であり、それは日蓮大聖人が唱えあらわされた南無妙法蓮華経に尽きるのです。
このように同じ仏教といっても、教義の内容や目的、そして修行もまったく違うのですから仏の本意に基づく真実の教えに帰依しなくてはなりません。
Q 先祖を崇拝することは間違い?
A 先祖を敬い、崇めることは、仏法の教義に照らして、決してまちがいではありません。むしろ人間としてたいへん立派な行為といえます。
しかし先祖を神として祭ったり、「仏」と呼んで祈願や礼拝の対象とすることは誤りです。なぜなら先祖といっても、私たちと同じようにひとりの人間として苦しんだり悩んだり、失敗したり泣いたりしながら生きた人たちであり、生前も死後も悪縁によれば苦を感じ、善縁すなわち正法によれば安楽の果報を受ける凡夫であることに変わりがないからなのです。言いかえれば人間は死ぬことによって、正しい悟りが得られるわけではありませんし、子孫を守ったり苦悩から救ったりできるわけでもないということです。
また、先祖の意志を考えてみますと、先祖の多くはわが家の繁栄と子孫の幸せを願って苦労されたことでしょう。一家の繁栄と幸福を願う先祖がもし、自分の子孫のひとりが、真実の仏法によって先祖を回向し、自らも幸せになるために信仰を始めたことを知ったならば、家代々の宗教を改めたことを悲しむどころか、「宿願ここに成れり」と大いに喜ぶはずです。
先祖を救うという尊い真心を正しく生かすためには、先祖の写真や位牌を拝むことではなく、三世諸仏の本種である南無妙法蓮華経の御本尊を安置し、読経唱題して回向供養することがもっとも大切なのです。
大聖人は、
「父母に御孝養の意あらん人々は法華経を贈り給ふべし。(中略)定めて過去聖霊も忽ちに六道の垢穢を離れて霊山浄土へ御参り候らん」(刑部左衛門尉女房御返事)
と、妙法によって先祖を供養するよう教えられています。
しかし先祖を神として祭ったり、「仏」と呼んで祈願や礼拝の対象とすることは誤りです。なぜなら先祖といっても、私たちと同じようにひとりの人間として苦しんだり悩んだり、失敗したり泣いたりしながら生きた人たちであり、生前も死後も悪縁によれば苦を感じ、善縁すなわち正法によれば安楽の果報を受ける凡夫であることに変わりがないからなのです。言いかえれば人間は死ぬことによって、正しい悟りが得られるわけではありませんし、子孫を守ったり苦悩から救ったりできるわけでもないということです。
また、先祖の意志を考えてみますと、先祖の多くはわが家の繁栄と子孫の幸せを願って苦労されたことでしょう。一家の繁栄と幸福を願う先祖がもし、自分の子孫のひとりが、真実の仏法によって先祖を回向し、自らも幸せになるために信仰を始めたことを知ったならば、家代々の宗教を改めたことを悲しむどころか、「宿願ここに成れり」と大いに喜ぶはずです。
先祖を救うという尊い真心を正しく生かすためには、先祖の写真や位牌を拝むことではなく、三世諸仏の本種である南無妙法蓮華経の御本尊を安置し、読経唱題して回向供養することがもっとも大切なのです。
大聖人は、
「父母に御孝養の意あらん人々は法華経を贈り給ふべし。(中略)定めて過去聖霊も忽ちに六道の垢穢を離れて霊山浄土へ御参り候らん」(刑部左衛門尉女房御返事)
と、妙法によって先祖を供養するよう教えられています。
Q 正教と邪教があることが判らない
A なぜ人は信仰し、宗教を求めるのかと問う時、ある人は神仏に守ってほしい、ある人は願いを叶えてほしいといい、またある人は先祖の冥福を祈りたいなどとさまざまな答えがかえってくると思います。
現在日本だけでも何十万という数の宗教がありますが、そのなかには、合格祈願のための神社をはじめ、水子供養専門の寺院など、多種多様の宗教があります。
もし宗教が単に気休めや精神宗教のための手段ならば、それはちょうど音楽の好きな人が名曲を聞き、読書家が名作を読んで心をなごませることと同じでしょう。またそれならば、どの宗教によって、どのようなものを拝んでも、その人その人の好みによればよいということになるかもしれません。
でも少し考えてみてください。私たちが生活する上で、無関係なものや無縁のものからは生活に直接影響を受けませんが、身近なものや、信用したものは、その善悪、真偽、正邪によって大きな影響を受けることになり、それが人生の指針にかかわるものや、人命に関するものであればなおさら大きな力として影響を受けることになります。
たとえば、進学や就職、結婚などは誰でも慎重に選択するでしょうし、日常生活でも乗物や食べ物あるいは医薬品などは、より信用できるものを選ぶものです。その選択の基準として、自分の経験や、道理の適否・実験の結果・保証の有無・他者の評価などを考慮したうえで、できる限り、よい価値を生ずるもの、すなわち満足できるものを選ぶのではないでしょうか。
これと同じように、宗教もそれぞれ本尊が異なり、教義もさまざまですが、日蓮大聖人は、
「小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(高橋入道殿御返事)
と仰せのように、三毒強盛の末法の衆生には、真実の教えである妙法蓮華経の大良薬を与えるべきことを教示されています。
釈尊も法華経において、
「唯一乗の法のみ有り、二無く亦三無し」(方便品第二・開結一七四)
と説かれ、仏になる道はただ法華経以外にないことを明かされています。
このように、宗教には正邪の区別があることを知らなければなりません。
現在日本だけでも何十万という数の宗教がありますが、そのなかには、合格祈願のための神社をはじめ、水子供養専門の寺院など、多種多様の宗教があります。
もし宗教が単に気休めや精神宗教のための手段ならば、それはちょうど音楽の好きな人が名曲を聞き、読書家が名作を読んで心をなごませることと同じでしょう。またそれならば、どの宗教によって、どのようなものを拝んでも、その人その人の好みによればよいということになるかもしれません。
でも少し考えてみてください。私たちが生活する上で、無関係なものや無縁のものからは生活に直接影響を受けませんが、身近なものや、信用したものは、その善悪、真偽、正邪によって大きな影響を受けることになり、それが人生の指針にかかわるものや、人命に関するものであればなおさら大きな力として影響を受けることになります。
たとえば、進学や就職、結婚などは誰でも慎重に選択するでしょうし、日常生活でも乗物や食べ物あるいは医薬品などは、より信用できるものを選ぶものです。その選択の基準として、自分の経験や、道理の適否・実験の結果・保証の有無・他者の評価などを考慮したうえで、できる限り、よい価値を生ずるもの、すなわち満足できるものを選ぶのではないでしょうか。
これと同じように、宗教もそれぞれ本尊が異なり、教義もさまざまですが、日蓮大聖人は、
「小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(高橋入道殿御返事)
と仰せのように、三毒強盛の末法の衆生には、真実の教えである妙法蓮華経の大良薬を与えるべきことを教示されています。
釈尊も法華経において、
「唯一乗の法のみ有り、二無く亦三無し」(方便品第二・開結一七四)
と説かれ、仏になる道はただ法華経以外にないことを明かされています。
このように、宗教には正邪の区別があることを知らなければなりません。
Q 宗教を判定する場合の基準とは?
A 正しい宗教の条件としては、まず人間の世界を離れた架空の世界を基盤とした宗教ではなく、人間のための宗教であり、人間がよりよく、幸せに生きるための宗教であることが大事です。そのためには、正しい生命観に基づき、正しい道理を備え、全人類を救済する現実の力をもった宗教であることが大切です。
ではどのような方法で宗教を判定したらよいのでしょう。
日蓮大聖人は、次のような基準をもって宗教の正邪を判定することを教えられています。
1 三証
文証、理証、現証のことをいいます。文証とは、経論などによる証拠であり、教えが独断ではなく、仏の説いたお経によっても裏付けられるかどうかを確かめることです。
理証とは、教えが因果の道理にかなっているかどうかを確かめることです。
現証とは、その教えがたんに理論のみの観念ではなく、現実の人間の生活の上にどのように証明されるかを確かめることです。
2 五義
教・機・時・国・教法流布の前後の五つを知ることをいい、宗教の五綱ともいいます。仏法を広めるに当たっての規範であり、この観点に基づいて正しい宗教を選択することです。「教を知る」とは、仏菩薩の説いた経律論や、あらゆる思想哲学宗教の勝劣浅深を見極めることです。「機を知る」の機とは衆生の機根であり、教えを受け入れられる状態にあるかどうかを見定めることです。「時を知る」とは、広まる教えに相応した時代であるかどうかを知ることです。「国を知る」とは、それぞれの国が、どのような教えに縁のある国かを知ることです。「教法流布の前後を知る」とは、先に広まった教えを知って、次に広まるべき教えを知るということです。
この五義のうちの、教の勝劣浅深を判定する基準として、五重相対、五重三段、四重興廃、四重浅深、三重秘伝などがあります。このなかのおもなものを簡単に説明しますと、
「五重相対」とは、内外相対・大小相対・権実相対・本迹相対・種脱相対の五重であり、仏教以外のすべての教えと仏教との比較検討から始まり、小乗教より大乗教、権大乗教より実大乗教、法華経迹門より本門、文上脱益より文底下種と、次第に高度な教えを選択していく方法です。
「四重興廃」とは、釈尊の教えを、爾前経、法華経迹門、法華経本門、観心、と従浅至深して勝劣興廃を判じることです。
これらの基準に基づいてさまざまの角度から判定を重ねるとき、初めて唯一の正法を選定することができるのです。
ではどのような方法で宗教を判定したらよいのでしょう。
日蓮大聖人は、次のような基準をもって宗教の正邪を判定することを教えられています。
1 三証
文証、理証、現証のことをいいます。文証とは、経論などによる証拠であり、教えが独断ではなく、仏の説いたお経によっても裏付けられるかどうかを確かめることです。
理証とは、教えが因果の道理にかなっているかどうかを確かめることです。
現証とは、その教えがたんに理論のみの観念ではなく、現実の人間の生活の上にどのように証明されるかを確かめることです。
2 五義
教・機・時・国・教法流布の前後の五つを知ることをいい、宗教の五綱ともいいます。仏法を広めるに当たっての規範であり、この観点に基づいて正しい宗教を選択することです。「教を知る」とは、仏菩薩の説いた経律論や、あらゆる思想哲学宗教の勝劣浅深を見極めることです。「機を知る」の機とは衆生の機根であり、教えを受け入れられる状態にあるかどうかを見定めることです。「時を知る」とは、広まる教えに相応した時代であるかどうかを知ることです。「国を知る」とは、それぞれの国が、どのような教えに縁のある国かを知ることです。「教法流布の前後を知る」とは、先に広まった教えを知って、次に広まるべき教えを知るということです。
この五義のうちの、教の勝劣浅深を判定する基準として、五重相対、五重三段、四重興廃、四重浅深、三重秘伝などがあります。このなかのおもなものを簡単に説明しますと、
「五重相対」とは、内外相対・大小相対・権実相対・本迹相対・種脱相対の五重であり、仏教以外のすべての教えと仏教との比較検討から始まり、小乗教より大乗教、権大乗教より実大乗教、法華経迹門より本門、文上脱益より文底下種と、次第に高度な教えを選択していく方法です。
「四重興廃」とは、釈尊の教えを、爾前経、法華経迹門、法華経本門、観心、と従浅至深して勝劣興廃を判じることです。
これらの基準に基づいてさまざまの角度から判定を重ねるとき、初めて唯一の正法を選定することができるのです。
Q いまさら改宗するのは‥‥
A 日蓮大聖人は、
「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ」(立正安国論)
と仰せられています。また正しい信仰に対する小さな発心、ほんのわずかな精進が、あとに大きな力となってあらわれてくることを、
「小事のつもりて大事となる」(衆生心身御書)
とも教えられています。
「親兄弟がなにか言いやしないか」・「親戚の人が反対しないか」・「上司や友人が軽蔑しないか」・「先祖からの墓地があるので改宗しにくい」などと、取り越し苦労するよりも、今日の小さな発心が、やがて大きな喜びとなり、功徳となって返ってくることを確信してください。その喜びと確信をもって、かえって反対しているそれらの人々をも、正法に導くことができるのです。
「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ」(立正安国論)
と仰せられています。また正しい信仰に対する小さな発心、ほんのわずかな精進が、あとに大きな力となってあらわれてくることを、
「小事のつもりて大事となる」(衆生心身御書)
とも教えられています。
「親兄弟がなにか言いやしないか」・「親戚の人が反対しないか」・「上司や友人が軽蔑しないか」・「先祖からの墓地があるので改宗しにくい」などと、取り越し苦労するよりも、今日の小さな発心が、やがて大きな喜びとなり、功徳となって返ってくることを確信してください。その喜びと確信をもって、かえって反対しているそれらの人々をも、正法に導くことができるのです。
Q 信仰をすると変な目で見られる?
A 人は皆生き方が違いますし、宗教に対する認識もそれぞれ異なります。なかには宗教の必要性をまったく認めない人もいれば、宗教を低級なものと思っている人などさまざまです。
今あなたは信仰の必要性を認識したものの、もし日蓮正宗の信仰をすれば、このような人々から奇異な目で見られはしないかと心配しているのでしょう。
しかし周囲の目といっても、宗教の正邪をわきまえない人々の宗教観は当を得たものではなく、無責任きわまりないものです。もしあなたがこれらの人々の言うことに従ったとしても、これらの人々があなたに対して幸せになる道を教えてくれるわけではありません。
欧米では「あなたはなにを信仰していますか」と聞かれた時に、「私は信仰を持っていません」と答えると、かえって周囲からなんの信念も、指針ももっていない人だと軽蔑され、奇異な目で見られるそうです。
日蓮大聖人は、
「百千合はせたる薬も口にのまざれば病も愈えず。蔵に宝を持てども開く事を知らずしてかつへ、懐に薬を持ても飲まん事を知らずして死するが如し」(一念三千法門・新編一一〇)
と仰せられ、せっかくの薬も宝も用いなければなんの役にも立たないように、正しい信仰をしなければ真の幸福は築かれないと教えられています。
他人の目を気にして至上の宝である正法の信仰を持たず無為に過ごすことは、あなたの人生にとって最大の損失になるのです。
どうか、取り越し苦労や弱気をふり払い、勇気をもって真実の門に入り、正々堂々と人生の大道を歩んで下さい。
今あなたは信仰の必要性を認識したものの、もし日蓮正宗の信仰をすれば、このような人々から奇異な目で見られはしないかと心配しているのでしょう。
しかし周囲の目といっても、宗教の正邪をわきまえない人々の宗教観は当を得たものではなく、無責任きわまりないものです。もしあなたがこれらの人々の言うことに従ったとしても、これらの人々があなたに対して幸せになる道を教えてくれるわけではありません。
欧米では「あなたはなにを信仰していますか」と聞かれた時に、「私は信仰を持っていません」と答えると、かえって周囲からなんの信念も、指針ももっていない人だと軽蔑され、奇異な目で見られるそうです。
日蓮大聖人は、
「百千合はせたる薬も口にのまざれば病も愈えず。蔵に宝を持てども開く事を知らずしてかつへ、懐に薬を持ても飲まん事を知らずして死するが如し」(一念三千法門・新編一一〇)
と仰せられ、せっかくの薬も宝も用いなければなんの役にも立たないように、正しい信仰をしなければ真の幸福は築かれないと教えられています。
他人の目を気にして至上の宝である正法の信仰を持たず無為に過ごすことは、あなたの人生にとって最大の損失になるのです。
どうか、取り越し苦労や弱気をふり払い、勇気をもって真実の門に入り、正々堂々と人生の大道を歩んで下さい。